・・・・・・令和元年10月・・・・・・

「無字」の公案
 趙州和尚、因みに僧問う、「狗子(くし)に環(かえ)って仏性有りや也(ま)た無しや。」州云く、「無。」
 趙州和尚は、南泉禅師の弟子で120歳まで生きたという傑僧古仏です。その趙州に、ある時、一僧が、「狗子(犬)に仏性が有るのか無いのか」と問います。趙州はにべもなく、「無」と答えました。「一切衆生悉有仏性」(一切のものには仏の性質がある)が常識であるとされている中での質問で、その分かり切ったところをあえてその僧は問いたのです。多分「有」という答を期待したのかもしれません。ところが趙州和尚は意外にも、只「無」と言い放ったのです。犬にも仏性が有る筈なのに何故趙州は「無」と答えたのでしょうか。

頌(じゅ)に曰(いわく)狗子仏性(くしぶっしょう) 全提正令(ぜんていしょうれい)纔渉有無(わずかにうむにわたれば) 喪身失命(そうしんしつみょうせん)
〔犬 仏性 仏祖の全ての命題がズバット提出されたのだ。少しでも有無相対の考えに堕すればただちに息絶えるだろう。〕


 この「無」とは、有るとか無いとかの「無」ではなく、虚無の「無」でもありません。強いて言えば絶対の無です。ある料理の味を知らない他人にいくら説明してもその味を理解させることは不可能です。本人が食べてみないことにはほんとうには分からないからです。それと同じで「無」の「味」も体験してこそ分かるのです。趙州はこの無の一字によって、仏性の絶対性、普遍性を明瞭に吐露されたのです。「無」の字に囚われてはだめです。「む」でもいいし、「ム」でいいし、「Mu」でもいいのです。「む」でもないし「ム」でもないし「Mu」でもないのです。只全身全霊の「無」です。そこには「無」以外何も無い世界が出現するのです。

合掌


来月も予定しています。光泰九拝
・・・・最新法話

ページ先頭へ

Copyright©2004-2019 Zenchouji Temple.Allrightsreserved.