・・・・・・令和6年4月・・・・・・

坐禅用心記 全文⇒

「坐禅用心記」(1)

 宝慶寺の維那(寺院で僧に関する庶務をつかさどり、指図をする役職)をしておられた 瑩山紹瑾 (けいざんじょうきんぜんじ) 禅師は、縦の導きをくださった道元禅師、「高祖さま」と並んで、横の導き広がりを生んでくださったので「太祖さま」と呼ばれています。永平寺の道元禅師、総待寺の瑩山禅師。曹洞宗では、このお二人を両祖と仰いでいます。
 道元禅師がお示しになられた座禅の仕方が、『 普勧坐禅儀 (ふかんざぜんぎ) 』です。そこに、読んでそのままではありますが、用心するべきこと、注意するべきことをお示しになられたのが瑩山禅師の『 坐禅用心記 (ざぜんようじんき) 』です。

 「常に大慈大悲 (だいずだうひ)に住して、坐禅の無量の功徳を一切の衆生に回向せよ。驕慢、我慢、法慢を生ずることなかれ、此れは是れ外道、凡夫の法なり

 いつでもあらゆる大きな自然と人の恵みにあることを坐禅によって感じ、そのことへの計り知れない感謝を全ての生き物にめぐらしていこう。傲慢になって他を見下したり、自分だけが正しいとして他を間違っているとすることや、自分の気付いたことを自己満足で終わらせ他を馬鹿にするようなことがあってはならないです。もしそれであれば、それは外道で、愚かなことなのです。
 「さて坐禅とは直ちに人として思いと場所に目を開けて、坐って安らかに生きて居るということだけをします。これはあたりまえの自分を水滴のようにとらえて、水滴なのだから落ちるものは落ちる。どうにでもなれという手放しの状態になることを言います。そして坐った場所の風や光をそのまま受けることです。それによって、体と心の両方が底を抜けたように一つになり、坐ることも寝ることも心より同じように遠くへ放ちます。したがって、良いことも悪いことも、あらゆる自分が賢いとか優れているとかいう思いもやめて、坐禅をしながらにして今の自分を生きたままやめます。だから道元禅師は万事を休息すと言われました。そしてあらゆるしがらみごとも捨て、すべて行わない、考えることをしない。わたしの名前も忘れ、仕事のことも忘れよう。人は喩えて慮を欲するがゆえに慮を絶やし、言いたいと欲しては言窮する。だから、そういう迷いの元を離れて、ものを知らない丸裸のような心になって、山高く海深く、頂きの露を見に行ってどうする、底を見ようともしないで。そうすれば縁にしたがって照らされ、眼は雲外に明らかです。思わないことで本来の姿に戻ります。
 教えは坐禅するところに朗らかです。亀寅その逆、方向をも思わず、全身独露のように。まさしく真実を見る人は真実に死人のように、思い出や一つの陰に眼を遮ることも無く、財産一つの塵のような足しに一喜一憂することもありません。あの世には塵埃は無いでしょう、何物も遮ぎる障いも為しません。清らかなる水には表裏も無く、この空には終に内外無いでしょう。清く澄みきった真心。形あるもの無いものという分別もしない、境智すら必要とはしない。過去も未来も今ここにあるんだから、歴史に名を残すことも必要無いのです。

合掌


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