・・・・・・平成30年08月・・・・・・

 「勢至菩薩
 勢至菩薩は、サンスクリット語では「マハースターマプラープタ」と言い、「偉大な威力を獲得した者」を意味します。
 八大菩薩のお一人で、衆生の無知を救う仏の智慧を表します。
 一周忌の導師で、真言は、「オン サン ザンサク ソワカ」 、この真言を唱えれば、煩悩が去り、悟るための智慧が得られるといいます。
 勢至菩薩は観音菩薩と並んで阿弥陀三尊を形成します。その右脇侍として有名ですが、観音の慈悲に対して、勢至菩薩は仏の智慧の光を象徴しており、あまねく一切を照らし、往生する衆生が地獄・餓鬼界へ落ちないようにまもり極楽浄土に導いてくれます。観無量寿経の中には、「知恵を持って遍く一切を照らし、三途を離れしめて、無上の力を得せしむ故、『大勢至』と名ずく」とあり、迷いの世界の苦しみから智慧を以て救い、亡者を仏道に引き入れ、正しい行いをさせる菩薩とされます。
 勢至菩薩は「智慧」を司るといわれますが、その「智慧」について考えてみたいと思います。

 釈尊は三十五歳のとき、菩提樹の下でさとりを開かれ仏陀となりました。この後、釈尊によって説かれた教えのすべては、このさとりの智慧の体験を世の人々に伝えようとされたものに他なりません。「華厳経」には、このときの釈尊の目覚めの体験が次のように記されています。
 「なんという不思議なことであろうか。欠けることのない仏の智慧は、すべての人の中にすでに届けられているのに、どうしてそれに気づかなかったのだろう。私はこれから、あらゆる生きとし生けるものに正しい道を教え、永く誤ったものの見方から解放されて、仏の智慧がその身の内にあることに目覚めさせるようにしよう。」
 智慧は、宇宙絶対の真理です。それは人の独断も偏見も通用しない絶対の法則です。釈尊のこの"発見"を「おさとり」と言い、仏陀の法則として「仏法」と言います。すなわち智慧とは仏法のことに他なりません。釈尊は入滅に際して、「自らを灯明とし、自らをたよりとして他をたよりとせず、法を灯明とし、法をたよりとして他のものをたよりとせず生きよ」(涅槃経)と語られました。仏教が目指しているのは、単なる個人崇拝や人間を超えた何かをやみくもに信じるということではなく、真理に目覚めた人の教えを学び、その目覚めの内容に私たちも目覚めていこうということであり、その目覚めの内容を指して「智慧」というのです。

 「もろもろの仏たちが世に出られるわけは、すべてのものを仏の智慧に入らしめるためである」(妙法蓮華経)
 釈尊はさとりの体験から人々がすでに持っている偏見と独断の見識を改め、その束縛から解放されて、ものごとの真実のすがたをありのままに見ることを諭されているのです。その"ありのままの真実"を見ることが「智慧」です。「ありのままの真実を見ること」と言われても多くの人は「いったいどういうことなのか」という思いでしょう。
 「あの人はいい人だ」というときは、たいてい「自分にとって都合のいい人」であり、「あの人はダメな人だ」というときは、たいてい「自分に利益をもたらさない人」という場合が多いのではないでしょうか。「好き」と「きらい」、「可愛い」と「憎らしい」、「きれい」と「きたない」など、ものごとや人を差別したり、仕分けたりするのも、結局は自分というモノサシで計っているのです。仏の智慧は、そのような偏見分別のモノサシを超えて、ものの価値を絶対平等に見る心の眼を開くことにあり、これを「無分別智」といいます。
 釈尊は教示されています。「ものに、意味のないものと意味のあるものとの二つがあるのではなく、善いものと悪いものとの二つがあるのでもない。二つに分けるのは人のはからいである。はからいを離れた智慧をもって照らせば、すべてはみな尊い意味をもつものになる」
 「心の眼を開き、智慧を進める」ことによって、この世に存在するすべてのものは、互いに因となり縁となって大きなつながりの中に存在しているのであって、そこに価値の上下はないのだ、という世界があらわれてくるのです。

合掌


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