・・・・・・平成28年02月・・・・・・

迦葉尊者かしょうそんじゃ

 釈尊には優れた10人の弟子がいました。それを十大弟子と言い、今年はそのお話しをお伝え致します。
 最初は、釈尊から後継者に選ばれた「迦葉尊者」です。迦葉尊者は、裕福な家柄の良い家に生まれながらも出家を望み、願ってから12年後に両親が亡くなり、ついに出家が叶い釈尊の弟子となったのです。ある日、釈尊と托鉢に出た途中、釈尊が木陰で休もうとしたとき、彼は自分の衣を脱いで畳んで釈尊の座布団にしました。釈尊の喜ばれているお顔を見て迦葉尊者はその衣を献上すると、釈尊も自分の袈裟を迦葉尊者に与えたといわれます。彼は生涯そのお袈裟を何よりも大切にし、これが「伝衣」の始まりとなったとされます。
 迦葉尊者で有名なのは「拈華微笑ねんげみしょう」の故事です。前1月法話「以心伝心」に記しましたが、釈尊が霊鷲山りょうじゅせんでの説法の折、金婆羅華の花を一輪手にして大衆に拈じ示したところ、誰もその意味がわからない中、迦葉尊者だけがニコリと微笑されたのです。それを見て取った釈尊は、「わたしの仏法を今迦葉尊者にそっくり伝えた」と宣言されたのです。釈尊から迦葉へと仏法が"以心伝心"された瞬間でした。「伝衣」とこの「伝法」から釈尊の後継者は事実上迦葉尊者に決まったと言えるでしょう。釈尊が故郷に向かう旅先の途中で亡くなったとき、迦葉尊者は別の旅先で訃報を受けました。迦葉尊者は釈尊のもとへ急ぎました。それまでの間、阿難あなん尊者が荼毘だびに付すために棺に火をつけようとしますが、何度やっても火がつきません。ところが迦葉尊者が拝んだあとで、たちまち燃え出したというのです。まるで迦葉尊者の帰りを待っていたかのようでした。釈尊の葬儀の導師を務めたことにより迦葉尊者が教団の二世となりました。
 釈尊が入滅されておよそ三ヶ月後、迦葉尊者は第一回目の「結集けつじゅう」を開きました。結集とは、世尊亡きあと、その「」を検証整理して後世に伝えるための「経典編纂会議」のことです。迦葉尊者の呼びかけに王舎城郊外の石窟、七葉窟に499人の阿羅漢が集結しました。もちろん阿難尊者もかけつけたのですが、ところが彼はまだ悟りを開いていなかったため阿羅漢の資格が無く入場できなかったのです。しかし、釈尊の侍者として25年間いつもおそばに仕え、全ての説法の内容を知っている記憶力抜群の人だったといわれます。それだけに彼抜きに経典の編纂はできないことは誰もが認めるところでした。しかし潔癖で厳格な迦葉尊者は頑として阿難尊者を中に入れなかったのです。それを受けて阿難はその晩死に物狂いで坐禅をしたのです。結果ついに悟りを手に入れ、迦葉尊者は阿難の悟りを認め結集に加えたのです。そして500人の阿羅漢の中から阿難尊者を司会進行役に抜擢したのです。記憶力の良い阿難尊者は「如是我聞にょぜがもん」(わたしはこのように聞きました)と言って、とくとくと語り出し、こうして初めての経典編纂会議は粛々と進んだのです。
 やがて、第一回の結集からおよそ20年後、百歳になった迦葉尊者は三世に阿難尊者を指名し後を託されひとり山に入り禅定に入りました。そこに三つの山が押し寄せ迦葉尊者を飲み込んでしまったとされ、壮絶な即身成仏を遂げました。「頭陀ずだ第一」とは「はげみ第一」ということです。三衣一鉢というのが出家者にとっての全財産で、その粗衣粗食に耐え修行を徹底される姿に釈尊は「頭陀」の模範だと称えました。禅宗寺院に多く祀られている釈迦三尊仏では、向かって右脇に迦葉尊者、左脇に阿難尊者を脇侍として奉るほどの大きな存在の尊者なのです。

合掌


来月も予定しています。光泰九拝
・・・・最新法話

ページ先頭へ

Copyright©2004-2016 Zenchouji Temple.Allrightsreserved.