・・・・・・ 平成十九年 三月 (弥生) ・・・・・・
  今から20年ほど前、大本山総持寺での修行を終えて本山を下りる際、梅田信隆禅師さまより記念に絡子(らくす・略袈裟) を頂きました。その裏に『随所作主』(随所に主となる)とご染筆くださいました。
  翌年に禅師様にお会いする機会があり、その時 おみやげに戴いた色紙にも『随所作主』と書かれていました。
  禅師さまはよほどこの言葉を大切にされていたのか、私に対してお示し下さったのか判りませんが、今日も頂いた時の禅師さまの 笑顔とともに大切にしているお言葉です。
  『随所作主』とは、いつでも、どこでも、自分の置かれた場所や状況の中で精一杯こころを込めて努め励み、相手を最善に生か すこと、そして自分が生かされ光るのです。何事も自分が主役になるといういう意味ではありません。
  この『随所作主』は、中国・唐時代の禅僧で臨済宗の開祖、臨済義玄の言葉でこれに続く句があります。「随所作主 立処皆真」(随所に主となれば、立つところ皆真なり)と、 そのことに一所懸命になれば、真実がそこに現れているという意味です。
  いつでも、どこでも『随所に主となる」ことは容易なことではありません。
  本物の自分、真実の自己(主人公)という土台がしっかりし てにないと、外からかかったほんのすこしの圧力に振り回されてしまい、右に左にブレてしまいます。あるいは転がってしまいます。
  では、「随所に主となる」生き方とは、どのようにしたらよいのでしょう。
  その答えは、『』です。何もない『無』ではなく、『とらわれない、こだわらない、かたよらない心』です。中心に軸があれば安定しま す。「自分を信じ、お釈迦さまの教えを頼りに生きて生きなさい」と先月の法話で示しましたが、その実現が、「随所に主となる」こと なのです。
  春だから梅の花が開くのではなく、梅の花が開くから春が現れているのです。精進努力している処に春が現れていくのです。梅の花 は春を現出せしめているのです。春は精進している中に現れ、春が現れている所には精進している姿があるのです。
                      合掌

来月も予定しています。                    光泰九拝
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