・・・・・・令和5年4月・・・・・・

歎異抄(たんにしょう)
第15章「煩悩具足の身」


【原文】
①煩悩具足の身をもつて、すでにさとりをひらくといふこと。この条、もつてのほかのことに候ふ。
②即身成仏は真言秘教の本意、三密行業の証果なり。六根清浄はまた法華一乗の所説、四安楽の行の感徳なり。これみな難行上根のつとめ、観念成就のさとりなり。来生の開覚は他力浄土の宗旨、信心決定の通故なり。これまた易行下根のつとめ、不簡善悪の法なり。
③おほよそ今生においては、煩悩悪障を断ぜんこと、きはめてありがたきあひだ、真言・法華を行ずる浄侶、なほもつて順次生のさとりをいのる。いかにいはんや、戒行・慧解ともになしといへども、弥陀の願船に乗じて、生死の苦海をわたり、報土の岸につきぬるものならば、煩悩の黒雲はやく晴れ、法性の覚月すみやかにあらはれて、尽十方の無礙の光明に一味にして、一切の衆生を利益せんときにこそ、さとりにては候へ。
④この身をもつてさとりをひらくと候ふなるひとは、釈尊のごとく、種々の応化の身をも現じ、三十二相・八十随形好をも具足して、説法利益候ふにや。これをこそ、今生にさとりをひらく本とは申し候へ。
⑤『和讃』にいはく、「金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護してながく生死をへだてける」と候ふは、信心の定まるときに、ひとたび摂取して捨てたまはざれば、六道に輪廻すべからず。しかれば、ながく生死をばへだて候ふぞかし。かくのごとくしるを、さとるとはいひまぎらかすべきや。あはれに候ふをや。
⑥「浄土真宗には、今生に本願を信じて、かの土にしてさとりをばひらくとならひ候ふぞ」とこそ、故聖人(親鸞)の仰せには候ひしか。

【現代語訳】
①あらゆる煩悩をそなえた身でありながら、この世でさとりを開くということについて。このことは、もってのほかのことです。
②この身のままこの世で仏になるというのは真言密教の根本の教えであり、三密の行を修めて得られるさとりです。また身心のすべてが清らかになるというのは法華一乗の教えであり、四安楽の行を修めて得られる功徳です。これらはすべて、能力のすぐれた人が修める難行の道であり、観念を成就して得られるさとりなのです。これに対して、次の世でさとりを開くというのが他力浄土門の教えであり、信心が定まったときに間違いなく与えられる本願のはたらきなのです。これは、能力の劣った人に開かれた易行の道であり、善人も悪人もわけへだてなく救われていく教えです。
③この世で煩悩を断ち罪悪を滅することなど、とてもできることではないので、真言密教や法華一乗の行を修める徳の高い僧であっても、やはり次の世でさとりを開くことを祈るのです。まして、戒律を守って行を修めることもなく、教えを理解する力もないわたしどもが、この世でさとりを開くことなどできるはずもありません。しかしそのようなわたしどもであっても、阿弥陀仏の本願の船に乗って、苦しみに満ちた迷いの海を渡り、浄土の岸に至りついたなら、煩悩の雲がたちまちに晴れ、さとりの月が速やかに現れて、何ものにもさまたげられることなくあらゆる世界を照らす阿弥陀仏の光明と一つになり、すべての人々を救うことができるのです。そのときにはじめてさとりを開いたというのです。
④この世でさとりを開くといっている人は、釈尊のように、人々を救うためにさまざまな姿となって現れ、三十二相八十随形好をそなえ、教えを説いて人々を救うのでしょうか。このようなことができてこそ、この世でさとりを開いたといえるのです。
⑤『高僧和讃』に、 高僧和讃(親鸞聖人著) 金剛堅固の信心の さだまるときをまちえてぞ 弥陀の心光摂護して ながく生死をへだてける
《現代語訳》 決して壊れることのない信心が定まるまさにそのとき、阿弥陀仏の慈悲の光明に摂め取られ、つねに護られて、もはや迷いの世界に戻ることがない。
とあるように、信心が定まるそのときに、阿弥陀仏はわたしどもを摂め取って決してお捨てにならないのですから、迷いの世界に生れ変り死に変りするはずがありません。だから、もはや迷いの世界に戻ることがないのです。しかしこのように知らせていただくことを、さとりだなどとごまかしていってよいものでしょうか。大変悲しいことです。
⑥「往生浄土の真実の教えでは、この世において阿弥陀仏の本願を信じ、浄土に往生してさとりを開くのであると法然上人から教えていただきました」と、今は亡き親鸞聖人のお言葉にはございました。



合掌


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