・・・・・・令和2年10・・・・・・

神仏分離
明治元年、明治新政府は、王政復古による祭政一致の立場から古来以来の神仏習合を禁じて神道を国教とする「神仏分離令」の布告を出します。明治政府は、天皇を支柱とする国家を目指し、天皇の絶対性の存在意義を皇室の宗廟たる伊勢神宮を最高にした神道に求めて、新政府は国教を仏教から国家神道に変えたのです。太古より江戸時代まで、仏教と神道は神仏習合・神仏混淆でした。どちらが上かと言えば仏教(寺)であり、神社の中にお寺がありました。鎌倉八幡は「鎌倉八幡宮寺」であり、京都の石清水八幡も「石清水八幡宮寺」と“宮寺”で、神社の中に寺院が勧請(かんじょう)されていたということです。「勧請」とは、「神仏などの来臨を勧め請い願うこと」であり、霊を分霊して他の場所に移して祀ることを意味します。

神様の本来の境地、すなわち「本地」は仏様であり、人びとを救うために仏様が神様に姿を変えているという考え方が本地垂迹説です。ですから、神社が仏さまを勧請されていたので神社は「宮寺」を名乗ったのです。伊勢神宮の本地仏は廬舎那仏、熱田は大日如来、春日は各殿があり、釈迦、弥勒、十一面観世音、厳島は大日如来と観世音、出雲は至勢菩薩等々・・・ 全ての神社には本地としての仏様が祀られていたのです。それが神仏習合の実態で、神様が仏様を守る立場であり、神様は従属の立場であるということです。本地垂迹(ほんちすいじゃく)は、神仏が同等の立場としてではなかったのです。

この本地垂迹に基づいて、たくさんの神様は仏様と関連付けられました。八幡様は神社ですが、菩薩と結びつけられたのが八幡大菩薩で、〇〇権現と呼ばれる名称もそうです。権現とは、日本の神々を仏や菩薩が仮の姿で現れたものとする神号なのです。「権現」の「権」という文字は「臨時の」「仮の」という意味で、人の場合「権大納言」だとか、僧侶であれば「権大僧正」とか「権大教師」とかの呼称がそれにあたり、仏が「仮に」神の形を取って「現れた」のが「権現」であり、これは、日本の神々を仏・菩薩の権(仮り)の現れとして位置づけ、神は仏を守護する役割になっていたということです。例えば熊野権現や山王権現、白山権現などがそうです。権現を祀るところを権社といい、神様を祀るところを実社といいます。

本地垂迹説は、日本の神々を仏・菩薩の権(かり)の現れとして位置づけ、仏が本体であり、神は仏を守護する役割にされていますが、このような神仏習合は、明治維新政府が天皇を支柱にする政策からよろしくありません。天照大神―神武天皇―大和天皇(古事記、日本書紀記述)からの明治天皇の存立は現人神であることが絶対必要だと考え、この思想に新政府が乗ったのです。そこで、維新政府は仏教の神道より上位を打ち壊すため、神社内の仏教的な要素を取り除くことにし、「神仏分離令」(1868年)の発令です。この布告は「神仏分離」に止まらず「廃仏毀釈運動」に発展してしまいます。(11月に続く)

合掌


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