・・・・・・令和2年06月・・・・・・

正思惟
正しいとは右でも左でもない真ん中、つまりかたよりのない中道ということですと、1月に示しましたが、人は偏よった考え方に立つことで偏見、偏執を持ち、ものごとが正しく認識できなくなります。誤った考え方から悩みや苦しみが生じます。だからこそ人は常に八正道の実践に心がけなければなりません。

正見(かたよらないものの見方)
正思惟(かたよらない考え方)
正語(かたよらない言葉づかい)
正業(かたよりのない行い)
正命(かたよらないせいかつ)
正精進(かたよらない営み)
正念(かたよらない心もち)
正定(かたよらなき落ち着き)

「正見」については4月・5月法話に述べてきましが、今回は二つ目の「正思惟」(しょうしゆい)について考えてみましょう。これは「かたよりのない考え方」ということです。

経典には、相反する二つのうち、一方を取ってそれに捉われるならば、それは誤りであると説かれています。私たちはともすると、善と悪にとらわれ、邪と正にとらわれ、美しいものとそうでないものにとらわれて、安心したり、不安になったり、喜んだり、悲しんだりします。釈尊は、人間の苦しみ、迷いの根源を「執着」と洞察し、善も悪も、正も邪も、美も醜も、長も短も、重も軽も本来固定的、実体的なものではなく、すべて執着、固執による偏見からきている認識だと言われます。つまり善悪の判断が「執着」から生まれる偏見によるものであれば、その認識は誤っているのです。偏見、偏執がすべての迷いや悩み苦しみの根源なのです。それは前回指摘したように、間違った「モノサシ」のせいなのです。

偏りのないモノサシで考えなければ正しい判断にはなりません。正しいモノサシでものごとを考える・・・これが正思惟です。その基本は、先入観や思い込みや主観などにとらわれないということです。

そして「ありのまま」の意味を考えてみることです。ものごとをありのままに見るのが、さとりであるということは、これまでも触れてきましたが、如実知見・・・まさに「実のごとくにものごとを見る」ということです。

ある僧が、「曲がりくねったこの松をまっすぐ見た者には褒美をとらす」と木片に書いたという。どこから見てもまっすぐ見られない。相談をうけたある僧が、「簡単なことだ。ずいぶん曲がった松だと言えばよい」と答えたそうです。

これは一休禅師と蓮如上人のエピソードとして伝えられています。「まっすぐ」とは「ありのまま」ということです。曲がったものを「ありのまま」見られないという凡夫のこころを見事に突いています。禅問答のような話ですが、松の木が「曲がって」いるという事実を「そのまま見る」ことが「まっすぐ見る」ことです。「ありのまま」という事実以上の真実はありません。人は「ありのまま」を「有相」という色眼鏡で見ているのです。

仏法には有相(うそう)と無相(むそう)という二つの考え方があります。有相とはものごとを実態的にとらえる考え方であり、無相とはすべての存在が空(くう)なるもの、つまり無我なるものと捉える考え方です。人は、どんなものでも実態にこだわります。どんな形か、どんな色か、どんな大きさか、どんな重さか、どんな質か。その実態に応じてそれぞれ勝手な基準で価値判断がなされています。格好や色の違いや大小でそのものの価値に歴然とした格差をつけます。たとえば、スーパーで売られているキュウリ一本にしても、曲がったものはまっすぐなものより劣っているとされ値段は安くなります。キュウリそのものの実体(中味)は変わらないのに形で優劣が付けられてしまうのです。同じ種から育ったキュウリなら質は同じ筈なのに見た目で格差をつけるのが人のモノサシです。トマトもかぼちゃもしかりです。野菜や果物だけならいざ知らず、まさに人に対しても同様なことが起こっているのです。同じ人間なのに「人種」ということばがあります。その言葉は人をまっすぐ見られないモノサシになっています。

つまり人のモノサシは所詮人のかたよったモノサシなのです。そんなモノサシの世界が「有相」の世界であり、そんなモノサシのない世界が「無相」の世界と言ったらよいでしょう。前者が迷いの世界であり、後者が悟りの世界です。ですからわれわれは、そんなモノサシのない正思惟を心掛けなければなりません。形に限定されるとそれだけのものになってしまいます。真実は形を超越した無相で、形あるものの実体は無相なのです。 

合掌


来月も予定しています。光泰九拝
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