・・・・・・令和2年04月・・・・・・

正見
4月8日は御存知お釈迦さまの御生誕を祝う「花まつり」の日です。「降誕会」と言いますが、それは兜率天という天界におられたお釈迦さまが、娑婆世界の悩める一切衆生を救わんがために下界に“降りて”こられたという意味から「降誕」といいます。伝説では、お生まれになってすぐに七歩進み、右手で天を、左手で地を指差して「天上天下唯我独尊(てんじょうてんげゆいがどくそん)」と宣言されたといわれ、その時、天に九頭の龍が現れ甘露の雨を注いで祝福されたとのこと。お釈迦さまのお母さまマーヤ夫人は出産のため里帰りの途中休息したルンビニーの花園でのことでした。花御堂を造り、これをルンビニーの花園として見立てて甘茶を灌(そそ)いでお祝いすることで、花まつりと言われます。お釈迦さまの誕生仏に甘茶を灌ぐことから正式には灌仏会(かんぶつえ)といい、その他、仏生会(ぶっしょうえ)浴仏会(よくぶつえ)龍華会(りゅうげえ)花会式(はなえしき)などとも呼ばれます。生まれてすぐに七歩進まれたといわれますが、ある説によれば、7というのは、6プラス1で、その6というのは、六道輪廻の世界、つまり迷い苦しみの世界のことであり、その六道から離れ悟りの世界へ晋むもう一本の道の意味が7歩だというのです。

さて、「天上天下唯我独尊」とは、「天の上にも天の下にも、私ひとりこそ尊い」という意味ですが、普通の人の言葉としたら傲慢以外の何ものでもありません。が、釈尊の言葉として受け止めるとき、そこに仏教の大事な精神があることは容易に推測できます。
釈尊が在世中の頃のことです。コ―サラ国のハシノク王は、ある日王妃のマッリカー夫人にたずねました。

王「妃よ、世の中で、自分より愛しいと思うものがあるか」
妃「王よ、私には、この世に自分より愛しいと思われるものはありません」
王「そうか。私もそうとしか思えない」

日頃、釈尊の教えを深く聞いていればこそ、この「誰よりも自分が愛しい」という、本能ともいうべき「我愛」の姿に気づいた王夫妻は、慈悲を説かれる釈尊の教えに背くような気がして、二人は釈尊を訪ね、そのことを申し上げました。

二人の言葉に耳を傾け、深くうなずかれた釈尊は、次の言葉をもって示されました。
「人の想いはいずこへもゆくことができる。されど、いずこへおもむこうとも、人は、おのれより愛しいものを見出すことはできぬ。
それと同じく、他の人々も己はこの上もなく愛しい。されば、己の愛しいことを知るものは、他のものを害してはならぬ。」

「自分よりあなたを愛する」「自分より家族を愛する」といいますが、ぎりぎりのところに追い詰められたとき、誰もがまず自分を先とします。これが偽らぬ人間の姿ではないでしょうか。

釈尊は、理屈抜きに、生きる本能ともいうべきこの「我愛」の姿をごまかさず凝視せよ、と示されました。さらに一歩進めて、そのわが身かわいい想いが満たされなかった時の悲しみ、無視され、傷つけられたときの苦しみ。思うようにゆくとのぼせあがり、思うようにゆかないと七転八倒し、あるいは落ち込み、あるいは他人を怨んだり、ときには仕返しをしてやろうとする悍ましささえ持ち合わせているのが人間の心です。そんな痛み苦しみを、ごまかさず、眼をそらさずしっかり受け止め、その苦しみのどん底で眼を他に転ぜよ、とおおせられたのです。

私がこんなに自分がかわいいように、あの人もこの人も自分がかわいいのだ。私がこんなに認められたい、傷つけられたくないように、あの人もこの人も認められたいんだ、傷つけられたくないんだ。私がこんなに無視されて悲しく苦しいように、あの人もこの人も悲しいんだと、わが身にひき比べて、他の悲しみ苦しみを我がことと受け止めよ、と示されたのです。これが「他の人々とも自己はこの上もなく愛しい」の心です。

「されば、おのれの愛しいことを知るものは、他の者を害してはならぬ」と説かれています。「我愛」が百八十度みごと方向転換したものが「慈悲」の心で、悲しみ苦しみが、求道の扉を開く鍵だと言われる所以です。

「肉眼は他の非が見える。仏眼は自己の非に目覚める」といわれます。自分では自分の姿は見えない。仏の御眼に照らされ、真実の教えの光に照らされてはじめて我が非に気付かせていただくことができるのです。

「正見」によって我が非に気付かせていただき、歩むべき方向づけができる。偏りのない天地の道理をしっかり「正見」することで「慈悲」が生まれるのです。ハシノク王夫妻は「我愛」を転じてほんとうの「慈悲」の意味を知ったのです。「慈悲」の教えこそまさに仏教なのです。

「天上天下唯我独尊」、「天の上にも天の下にも、私ひとりこそ尊い」の意味するところは、自己が尊いのは、すべての人それぞれも同じであり、自己へのほんとうの「愛しさ」を知ることで、他己も同等であることが分るのです。
自己への「愛しさ」が正見できたときそれを「慈悲」に昇華できるのです。釈尊の「唯我独尊」はまさに正見に基づくものであったことがわかります。「正」という文字は「一以って止まる」、つまり「一」と「止まる」から構成されているといわれます。

合掌


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