「一茎草」
その昔、うららかな春の日差しの降り注ぐ中、お釈迦さまは何人かのお弟子さんと共に、野中の道を歩いておられました。 冬の眠りから醒めた草木が、とりどりの花を咲かせている丘で、お釈迦さまは、足元を指して、「ここにお寺を建てるといいね」と申されました。お弟子さん達に混じってお伴をしていた帝釈天が、一本の草をお釈迦さまの指さされたところに挿(さ)され、「お寺が建ちました」と申しあげました。すると、お釈迦さまは満足げにニッコリと微笑まれました。
「挙す、世尊、衆と行く次いで、手を以って地を指して云く、此の処宜しく梵刹を建つべし。帝釈、一茎草を将って地上に挿んで云く、梵刹を建つること已に竟んぬ。
世尊微笑す。」
この話は「従容録」という禅宗の祖録の第四則「世尊指地」の本則ですが、穏やかな春の日の一瞬のできごとのこのやりとりの公案の意味するものは一体何でしょうか。
宏智正覚禅師はその頌で、「百草頭上無辺の春 手に信(まか)せ拈じ来たり用い得て親しし」と示されています。春は地上にあるすべてのものの上に平等に訪れ、春の命が全く平等に注がれている。その春の命はまさに佛性でありその陽光はまさに慈悲である。そこには人の分別や凡夫の物差しなどまったく入る余地はない。あるがままの春の如く、我々も全身全霊でその場、その時に臨まなければならない。
修行は普通お寺という道場で行いますが、本来修行というものは時も場所も選びません。即時、即座が修行なのです。大伽藍の中と麗らかな野原とで本質的な差などないのです。ここが野原であれ、ここがお寺だと思えばそこがお寺になるのです。まさに「却下照顧」、つまり「足もとだよ」ということです。「人生の生き方は歩々是道場」であるから、この場こそまさにお寺(道場)ですよ、という意味で帝釈天が一草を地面に挿して釈尊に示したのです。
本物の道場とは、いつ、どこであっても、「今、ここ」でしかなく、本物の修行とは、「今、ここ」に命をかけることです。「寺という道場はいつでもどこでもその場その場が道場である」という、帝釈天の反応に釈尊は感心して微笑されたのです。
合掌
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